たまろぐ

みたこと感じたこと、もくもく書きためていきます。 http://aratamakoto.com

名をつけることをやめる

街じゅうをぐるりと見渡しても名のついていないものはなかなかない。ひとはいつだってなんにだって名前を付けたがる。
肩書き。職務。関係性。名は役割と関係性を規定する。判で押すように、型で抜くように。
規定することで得られる安心感は麻薬のようで、それから逸脱しようとする動きですらややもすれば「名前をつけて保存」される。
そして気づかないうちに固着化された観念にとらわれて、視界も世界も狭まって、身動きが取れなくなって。

名をつけることをやめる。それは、線を引かないこと。型をもたないこと。自由であること。海のようにまじりあい、三稜鏡のように散漫すること。
対象に向かうその気持ちにさえ叙情も叙事もゆるさず、ただゆるやかに、かろやかに、稜線を渡りあるくこと。
いつだってだいじなのは固着化された観念そのものではなく、その先で生まれうるあたらしいなにかなのだから。

ここちのよいプロダクト

を、作りたいと思っていることに気づく。

ついつい触っていたくなるような感触をもつもの。
触れた瞬間に、ここちよい引っ掛かりを感じられるもの。
赤ちゃんの肌着とか。
なめされた革とか。
猫の毛並みとか、ざらりとした舌とか。
足にすこしくすぐったい、雨上がりの芝生とか。

ウェブとかアプリとかサービスとかモノとか、そういう区分ではなくって。
もっともっと思考の垣根を取り去って。
まだ見ぬ「あなた」の生活に寄り添っていくことをゆめみて。

おやすみなさい。

最良の水場を求めて

「馬を水飲み場に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない。」
悲劇はいつも「普通の人」どうしで起こるという。

視界も視座も異なるというのに、同じものを見ている錯覚にじわりじわりと蝕まれていく。
「わたしにはこう見える。あなたはどう思う?」
こんなシンプルな問いすら胸につかえて立ち止まってしまう。

「放つことばのその先に、お互いが少しだけ手をのばして触れることができるなら。」
一見崇高に映るその祈りすら、利己のかたまりに帰着して。
「あなたのためを思って」。レンズとしての客体を通って、自分自身に像が結ばれる。
相手の成長に責任を負うなんて文句は、ただ相手を土足で踏みにじっているにすぎないのだと。

「自分にできるのはただ、相手にとっての最良の水場を共に探すことだけだ。」

バゲットを焼いたよ

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参考にしたレシピは
簡単♫気軽にフランスパン by kurikuro [クックパッド] 簡単おいしいみんなのレシピが209万品

以下次回のためのメモ。

  • 一次発酵後すぐに無理して生地をのばそうとしない
    • ベンチタイムを挟むと扱いやすくなるのでそこで完成をイメージしつつ整形する
  • クープは縦に入れることを意識する(やっぱりここがいちばん難しい)
  • 250℃だとわたしのオーブンでは若干高いかも
    • 次は230℃くらいでやってみる

ねっこのはなし

根無し草はねっこがないので、おとずれる場所の風向きにあわせて流されます。
おおきな環境の変遷のなかで、ふわふわと、よき方へ流れていきます。
ーーはて、よき方とは?
 
ねっこがないので、好きなものを好きと言えなくなります。
ねっこがないので、自分のありかが分からなくなってしまいます。
ねっこがないので、風にふきとばされない他の草花をうらやみます。
 
そんなときは。
自分が強く心を動かされたものを、真正面から眺めてみます。
好きなところ、いまひとつなところ、その思いの由来をあぶり出すように、つと、見すえます。
その由来の先がきっと、あなたの、わたしの、ねっこなのです。
 
いろんなところに根をはって、遠い土地には種をはこんで。
それぞれのよき方を向いて、すくすくと育っていけますように。
 

気づけばいろんなものを捨て置いてきていた

いつだってがむしゃらに、一途に、そのとき善いと感じたことを、
悩みぬいて、もしくは心のおもむくままに、選択しつづけてきた。
はずだった。 
 
ポケットの中はつねに葛藤と劣等感でいっぱいだった。
諦めや挫折からひねてみたり、選んだ道を正解にするために無理をしたりも、した。
背伸びをして、しなくともよくなるところまでたどり着いて、また背伸びをして。
失敗も後悔もむりやり次に進むためのガソリンにして。
それはきっと、他人本位の裏返しであるところの、みえすいた自分本位。
 
ふと気づけば、いろいろなものを捨て置いて、積み減らして、ひた走っている。
じわりとにじむ恐怖と焦りを振り切るために、わき目もふらず。
 
いつだってマイナススタートなんだ、得意なことなんてなにもない、なんて自分を卑下しながら。
それでもその時に高く見えるなにかに、形のみえないなにかに、しがみついていたくて。
 
だからこそ。 
いったん足を止めるべき時が来たのかもしれない。
いまこの手にあるかすかな残滓との対峙が、必要なのかもしれない。
立ち止まって、立ち返って。
なんのためになんの道をすすむのかを、見つめなおすために。
もういちど、瑞々しいよろこびと驚きをもって世界へ駆けていくために。

価値基準はコミュニティに依存する

ということに気づくまでにずいぶんかかったなあとしばしば思う。

自己評価だけで生きていけるひとは世の中にはあまり多くはなく、たいていは自身のさだめる枠のなかで他人からの評価をもぎとろうともがいているのだろう。

人間はなにがしかの――しばしばそれは複数にわたる――コミュニティに属する。
そしてそれぞれにコミュニティの中で醸成された価値基準というものが存在して、その基準を満たせば満たすほど「よい」とされる。
認められたり感謝されたりすることで満足感を得るタイプの人間はこの沼にはまりやすい。
他人からのよい評価は甘露のようなものだから。
「よい」とされる行動・言動を探して奔走し、自身の価値基準とのギャップに苦しんで、迷走する。

自分自身の「こうなりたい」という思いは、本当に自分が望んだもなのか。
集団の価値基準を押し付けられた、もしくは不当に*1受け止めすぎた結果ではないのか。

*1:正しい・正しくないも、それぞれの価値基準にゆだねられるところではあるけれど